昨日行った錦繍 KINSHUの舞台の後、不思議な虚脱感を抱えながら、激しく降り続く雨の中、ワイパーを作動させながら、金曜の夕方の渋滞を抜けて上野に行きました。何しに行ったかというと、ハイドンのコンサート、「ハイドン・シリーズ -室内楽の夕べ-」。そして今日はその第2夜。2日連続でのハイドンです。

昨日はおもえば車移動を含めると天王洲の劇場に向かう12時半からコンサートが終わる21時半まで食事を摂る暇もないほど切れ目なく慌ただしかったです。今日は今日で、昼間は大学のゼミOBの集まりがあり、たらふく飲み食いしすぎたので、このまま帰ろうかなあ、と途中まで真剣に思っていました。けれども、そのまま日比谷線に乗って、酔っていたのか、いつの間にか寝てしまい、気がつけば上野にいました。
そして、歩いて旧奏楽堂へ。ここは重要文化財に指定されている、由緒ある建物。ここでのコンサートは、昨年のクリスマスのブランデンブルク協奏曲のコンサート以来です。
このコンサートは両夜ともはじめに主催者である東京藝術大学音楽学部の教授によるレクチャーが30分ほどあり、その後演奏会という構成。観客は7割ほどで、楽器を抱えた練習か何かの帰りと思われる大学関係者も結構散見されました。極めつけは、そのレクチャーはドイツまたはオーストリアから来ている教授によりドイツ語で行われて、その後隣の日本人の教授が日本語訳をしてくれたのですが、外国人の教授がジョークを言ったような箇所では、相当数の人々がリアルタイムで笑っていました、、、
まあそんな中、ひとり静かに、弦楽四重奏や、ディヴェルティメントやピアノ3重奏などを楽しみました。
ハイドンを聴くようになったのは、ここ3年ほどのことです。最初はピアノソナタを聴いて、「ふーん、綺麗な曲だけど、ずいぶんとおとなしいのね」くらいにしか思っていなかったのですが、その中でピアノソナタ第52番変ホ長調だけは、なんだか聴いていて気持ちが高揚するダイナミックさが気に入っていてよく聴いていました。
そして、今年に入ってからは、ハイドンが亡くなってちょうど200年ということで、たくさんCDも発売されて、その時に弦楽四重奏曲の全集(当初よりちょっと値上がりしてる)と交響曲の全集がとても安かったので買い、弦楽四重奏は特に良く聴いています。
ハイドンの曲の何が最近の僕をそんなに惹き付けるのか?
難しいですが、とにかく最近ハイドンの曲をいつのまにか心地よく聴けるようになった僕の存在に気づきました。ハイドンの曲を聴くと自分の中の美的価値観を今一度考え直させてくれるようです。
昔は「モーツァルトに比べていまいち華がないというか、表面的で面白みに欠ける」というような随分と粗暴な感想を抱いていたけど、最近ハイドンの曲を聴く度に「百歩譲ってそうだとしても、だから何?、なぜモーツァルトと比べるの?、”華”って具体的に何?、そしてそれはあると良くて、ないとだめ?、本当は”華”はあるのでは?、深い=良い、表面的=悪い?、深いって何、表面的って何?、音楽ってそんなに眉間にしわを寄せながら聴かなきゃいけないものだっけ?、、、」ときりなく思いを巡らし、自分の価値観に揺さぶりをかけてくれます。
また、こないだのコンサートの時のブログにも書いたように、”別に特別なことをしなくても、何気ない日常の中に美しさや幸せはたくさん転がっているんだよ”と、自分を原点に立ち返らせてくれます。他の言い方をすると、なんともいえない「憬れ」("such a longing"のほうがニュアンスとしてはより近い)をハイドンの曲から感じます。
たとえば、有名なところではドイツ国歌でもある「神よ、皇帝フランツを守り給え」のメロディー(ハイドンの弦楽四重奏曲第77番ハ長調第2楽章より)など。
最後に、音楽評論家である吉田秀和の本の中でハイドンの曲について触れている箇所があったので以下に少々抜粋を。これ以上ハイドンの曲を簡潔且つ正確に言い得た表現を他に知りません。
「ハイドンは、即興と情熱の一時的な戯れを拒否し、すべて着実で、論理的に一貫し、作品の統一と安定、音楽の純粋と真実が達成されている。しかも、すばらしいことには、それが、みせかけの悲愴や厳粛やをともなわず、むしろ明るくて活発な機知とユーモアとを失わない、本当の思索となっていることである。」
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